• 飛騨高山の清流「苔川(すのりがわ)」を美しく保つ10町内会合同の会 since nov.19.1982

・美しくする会 資料

(出典は下に記載)

第四節保存の動向
契 機   市民憲章に、 「山も水も美しい飛騨高山」 とある言葉に
は、高山市民の愛着と誇りが満ちている。住民 ・市民の手で、住環
境や町並を美しく保とうという運動は、この愛着と誇りに支えられ
ている。こうした運動のこれまでの経過を間単に触れておこう 。
宮川は、現在鯉や鱒が泳ぐ清流で、高山を訪れる人々の目を引
く。今でこそ高山にふさわしい美しい川と評価されるが、こうなる
までには川を美しく する努力の積み重ねがあった。上水道が普及し、
人口が増えると 、宮川は汚水が流れ込むだけの川となっていっ た。
宮川が生活に結びついていた時には川の清掃も盛んであったが、川
と離れて生活できるようになると 、清掃することも少くな った。昭
30 年代には川の汚染が目立ち始め、魚の姿も消えていった
昭和38年、こども会は 「宮川に清流をとり戻そう 」と活動を開始
し、毎月 1回こども会をあげて宮川の清掃を始めた。川に流れ込む
溝や土管に金網をはり 、川にたまった ゴミを取り除いたのである。
数箇月の後には宮川に清流が戻ってきた。
清流を取り戻した子供達は、こんどは魚を呼び戻そうと、おこず
かいを出し合って魚を買い、放流しようということになっ た。昭和
39年 4月、鯉と鱒の放流が子供達の手で行なわれた。
昭和40年は岐阜国体が開催された年である。県は 「町をきれいに
花を値えよう」という「花いっぱい」運動を推進していた。高山の
子供達の活動は、国体準備をする市民運動を呼び起し、そして国体
の後も、環境を艮 くしてゆく運動として引継がれ、昭和41年には市
民憲章の制定に至る。
「宮川に清流を」とい う子供達の活動は、その後昭和44年 「宮川
を美 しくする会」の結成により市民運動として引継がれ、現在なお
続いている。宮川に注ぐ江名子川についても 同様の運動があり、昭
和45年に「江名子川を美 しくする会」が生まれて活動している。子
供達・市民の手によって宮川・江名子川は美しさを取り戻し、保た
れている。

タイトル: 005 第一章 高山の歴史と風土 第四節 保存の動向
その他のタイトル: ChaperI. The history and the regional setting 4. Movement of conservation of the historic quarters
著者: 上野, 邦一
うえの, くにかず
Ueno, Kunikazu
キーワード: 宮川
江名子川
竜神台組町並
町並保存
環境保全基本条例
発行日: 1975年3月31日
出版者: 奈良国立文化財研究所
引用: 奈良文化財研究所学報、第24冊、pp.18-21
URI: http://hdl.handle.net/11177/2032
出現コレクション:第24冊(1975)高山 町並調査報告
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・飛騨高山の郷里を流れる苔川

苔川(すのりがわ)は、越後町、千島町を流れ本母町、冬頭町に至って宮川に流れ込みます。

苔川は、辻ケ森などで、「スノリ」(洲海苔?)と呼ばれるカワノリ(カワモズク?)が採れたことから呼ばれるようになり、苔橋も周辺で「スノリ」を産していたので、そう名付けられたとのこと。

江戸時代には「灘洲海苔」※(なだすのり)という歌も詠まれる程の名産品でしたが、現在この川海苔は絶滅危惧種に指定されており見ることができなくなりました。

(※現在の北小学校周辺は灘郷と呼ばれていました)参考文献 飛騨国中案内 飛騨史壇 ウィキペディア「カワノリ」